「仲善の43年を語る『薬草とともに生きる』仲本勝男」第3回(全4回)
創業1968年。ノニやウコンを中心に健康食品を全国に通販の仲善

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さわやかな朝は健康のあかし
農業生産法人 株式会社仲善
創業1968年。ノニやウコン、グァバ、クミスクチンなど、アジアンハーブを活かした健康食品を全国に通販。2001年開園の「くるくまの森」は沖縄県南部の新たな観光スポットとして注目の的。注目のノニ・ウコン商品をぜひ。

農業生産法人 株式会社 仲善
〒901-1513
沖縄県南城市知念字知念1190
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FAX: 098(949)1693
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「仲善の43年を語る『薬草とともに生きる』仲本勝男」第3回(全4回)

 
連載の第3回をお届けいたします。(全4回)

 


 

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会社倒産へと急転直下


 1979〜80年にはその後の私の人生を大きく変える出来事があります。「アマチャヅル」ブームです。本土の健康食品メーカーからは毎月大量の注文が入ってくるのです。山の中から採ってきたアマチャヅルを選り分けて乾燥させて出荷するんですが、それだけでも月に2,000万円近く売り上げるようになりました。

 急成長する分野だと銀行も考えたのでしょうか、ある銀行がうちの会社に目をつけ、出資して株主となったのです。1983〜84年のことです。

私はそのころから薬草園構想を抱いていました。薬草の畑をお客さんにみてもらい、そこで採れた食材を使った料理を味わっていただくというものです。ちょうど今の「くるくまの森」と同じ考えです。1978年には野菜だけを使ったレストランもオープンさせていました。結局、そこは、あまりの活気のなさに嫌気がさして3年ばかりで閉めてしまいましたが(笑)…。

 銀行は株主として入ってくれたし、アマチャヅルブームで商品はどんどん売れていく。正直言って、天狗になっていたんですね。「薬草園構想を実現するのはいまだ!」と銀行に相談もせず、3,000坪の土地を買う手形を切ってしまったのです。順序がまったく逆ですよね。銀行と話をしてから手形を切るべきだったのに、有頂天になっているものだから、「大丈夫だろう」と甘く考えてしまったのです。

 ところが、その土地には複雑な問題があるからと、銀行からやめるように言われてしまい、手形は既に切っているし、1年あまりは何とか引き伸ばしてきたものの、結局はパンクです。アマチャヅルブームも潮が引くように去ってしまい、残ったのは2億4千5百万円の借金。従業員も30人ほどいました。

 実は私は一人っ子なのです。父は戦争で亡くなりましたので、母が一人で育ててくれたのですが、自分をみると一人っ子というのはダメだな〜と思いますね。だれも私にあれこれ言う人がいないんですよ。兄弟が多かったら、小さいときからケンカしたり怒られたりして育つけど、誰にも何も言われずに育ったために、人にあれこれ言われるのが大嫌い。好きなようにやらないと気がすまないんです。だから、土地の手形を切るときも、もしかしたら注意してくれた人がいたかもしれないのに、まったく気を払わなかったんですね。

 それに母と家内の脛(すね)をかじっていたことも影響したと思います。いつまでも親の脛をかじっている若い人がいますが、脛には毒があるんですよ。そのうちやる気を失い、最終的には考えるということをしなくなるんです。結婚してからは家内の脛をかじっていた私も甘い考えしかできなかったんですね。だから3,000坪の土地をそのとき買うことは分不相応であることも分からず、倒産させてしまったんです。



少しずつ借金を返すうちに追い風も


 2億4千5百万円もの借金を払う手段は一つしか思いつきませんでした。自殺です。2億円ぐらいの保険に入っていましたので、全部ではないがこれで払えると考えました。しかし、結局死ねなかったんです。逃げるように沖縄から出て、各地を転々とし京都の飯場に流れ着きました。そこで名前も変えて働いていたのですが、やはり沖縄のことは気になる。1カ月ほどして知人に電話したら、家族がチリジリになっていることを知らされました。私のために家族を犠牲にしてしまったのです。


 債権者会議が開かれる前日に沖縄に戻ってきました。1人ひとりに土下座し、頭を下げて何とか再建させたいということを訴えました。首をつかまれ、「アンタを殺して自分も死ぬ」と言われもしましたが、販売する商品はあるわけだし、その商品を売りながら少しずつでも借金を支払うことで最終的に了承してもらえました。


いま考えても本当にありがたいことですが、ちょっとずつ払い借金を減らすうち、債権者の方々が協力してくれるようになったのです。友人や知人に宣伝してくれたり、自分たちが自ら買ってくれたり、現金でしか売ってくれなかったのを掛けにしてくれたり、味方になってくれました。幸運なことに、その後90年代に入ると薬草ブームと沖縄ブームがやってきて、1993〜94年ころには一息入れられるようになってきました。


1997〜98年ごろになっても薬草ブームはまだ衰えをみせず、まだまだ伸びる可能性はありました。しかし工場が手狭で、量産体制が取れません。落ち着いたとはいえ、負債はまだ残っていましたし、一度つけてしまった会社の傷で銀行は金を貸してくれません。



 そんなとき、いまの本社がある知念村(当時)から誘われたのです。知念村は「癒し」をテーマにした村おこしを考えており、6,000坪という土地を取得する際に善処してくれました。誘致に当たっての条件は「地元の人間を雇用すること」の一点です。



くるくまの森と、カフェくるくまも2001年にはオープンさせることができ、連日県内からあるいは県外からたくさんの方々に訪れてもらっています。











2011年08月16日

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