仲善からのお知らせ

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  • 2011年04月20日 10:00
  • その他

「仲善の43年を語る『薬草とともに生きる』仲本勝男」第2回(全4回)

 
連載の第2回をお届けいたします。(全4回)

 
第1回 3月11日(金)公開第2回 4月20日(水)公開

 

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副作用の恐ろしさを知る


 病院には結局1年ほど入院していました。薬を飲みながら療養するうち症状は改善されていくのですが、入院している人たちをみていて、おかしなことに気づきました。耳が聞こえなくなったり、体が麻痺したりする人が多いんです。薬の副作用でした。

事実、病院では2週間に1回の割合で聴力検査をしていました。そのとき私にはこれといった副作用は現れていませんので、看護師さんに「聞こえますか?」と言われ、冗談で「いえ、聞こえません」と答え、「ちゃんと聞こえてるじゃない。 真面目にしなさい」と怒られたこともありました(笑)。

一緒に入院していたまわりの患者さんたちからは薬の副作用の怖さをしっかり教えてもらいましたし、退院した後、やっぱり私にも副作用は現れました。胆のうをやられてしまい、緊急手術を受けることになったのです。そのときに思ったんです。やっぱり薬はだめだと。今でこそ、「自然治癒力」とか「東洋医学と西洋医学の融合」などと言われますが、当時は西洋医学の全盛期。薬に対して物申す雰囲気ではありませんでしたが、私はいろんな症状も見ているし、自分も経験している。これはいけないと感じました。そして退院したら自分は薬草で身を立てようと決心したのです。それが本格的に薬草屋をスタートさせるきっかけです。

 正直言うと、もう一つ理由があり、会社も休みがちだった私にはスキルと呼べるものが何もなかったからです。体が弱い私には土方とかの日雇い労働なんてとても無理だし、サラリーマンを続けることも難しい。結局、薬草を売ることしか思いつかなかったのです。

 会社を辞めることについては、家内には特に相談しませんでした。子どももいましたが、そういえば、家内からも何も言われませんでしたね。まぁ、いつも病気で会社も休みがちだから、家内にしてみると既に辞めているようなものだったのかもしれません。気が付いたら亭主は会社に行かなくなっていた(笑)ってところじゃないでしょうか。美容師として働いており、子どもは一緒に暮らす私の母が面倒をみてくれていましたから、今考えると、私は好きなように暮らす「髪結いの亭主」ですね。


クミスクチンが脚光を浴びる


 事業はスタートしたものの、クミスクチンはそんなに売れませんでした。稲嶺一郎先生が興した稲穂産業はやんばる(沖縄の名護市以北の地域)のオーシッタイというところで大々的にクミスクチンを栽培しており、私はそこから乾燥させたクミスクチンを仕入れていました。自宅で粉砕し、お茶として販売していたのです。

売れないのは「お客が味を知らないからだ」と私は考えました。それなら味わってもらおうと、タッパーにお茶を入れて市場に行き、そこで関心を示してくれる人に試飲してもらいましたが、飲んだ人からは「へんな匂い」とか「まずい」といった反応ばかり。たま〜に1袋、2袋売れる程度です。

後から気がついたのですが、薬に万能薬がないように、薬草にも万能薬はありません。クミスクチンは私がそうだったように腎臓には効果を発揮しますが、それ以外の人にはおいしいとも何とも感じなかったのでしょう。「こんないいものだから、そのうち絶対に売れる」という確信だけで、がむしゃらにすすめてまわりました。


創業当時は思い出すと、
つい笑ってしまうことばかりです。例えば、


自宅で粉砕機を回すとゴミが飛んできて大変なので、延長コードを何本もつなぎ、よその畑の中で粉砕機を回したりしていました(笑)。今じゃ、どこのうちも門扉がしまっていますが、当時は訪問販売でたずねると、戸を開けたまま住人が中で寝ていて、声をかけてビックリされたり(笑)とか。古きよき時代でしたね。

 そんな生活を1年半ほど送っているうちに、「クミスクチンは健康にいいらしい」という話が広がっていきました。「健康に良い野草」として、クミスクチンの栽培地であるオーシッタイ近くの老人クラブの人たちが自宅の庭や畑に植え始めたのです。それをNHKが取材し放送したことから急速に売れるようになってきました。だから、クミスクチンを広めた本当の功労者は実はあの老人クラブの人たちなのです。

 しかし1973〜74年ごろになると、困ったことが起こりました。クミスクチンの人気で、原材料が十分に手に入らなくなってしまったのです。そこで、台湾に渡り、現地の農家にクミスクチンを栽培してもらい、そこから仕入れることにしました。先手必勝とはまさにこのことで、75年にはクミスクチンが一躍脚光を浴びることになったのです。早めに手配していたため、私たちは売るチャンスを逃さずに済んだのです。新しい機械を入れ、それまでの袋詰めパッケージだけでなくティーバッグも新商品として発売しました。「手軽に飲める」と喜んでいただいたことを覚えています。

 また、このころにはグァバとうっちんも注目を集めるようになりました。グァバ茶は、戦後の沖縄産業の復興に大きな影響を与えた宮城仁四郎さん(故人)という方との共同開発です。宮城さんはそれまで八重山でグァバジュースを作っていましたが、台湾から類似商品がどんどん入ってきたため売れなくなって困っていました。二人であれこれ話しているうちに「ジュースはあるが、お茶はまだない」ということに気づき、グァバ茶を販売することにしたのです。私は「バンジロウ茶」とつけたかったのですが、宮城さんの強い意向でグァバ茶でいくことにしました。

余談ですが、実はクミスクチン茶もグァバ茶もうっちん茶も、お茶として売り出したのはうちが初めてなのです。



第1回 3月11日(金)公開 / 第2回 4月20日(水)公開

2011年04月20日